公開日 2025年10月25日
更新日 2025年10月25日
「私は米を買ったことがない。支持者から沢山もらったので家に多くある」
「野党から来る話は何一つ聞かない」
「あんな奴は死んでしまえと言えばいい」
著名人の失言は、一度表に出されれば取り返しのつかない事態になることもさまざま。
責任を取って辞めるという行為に繋がりますが、「ペンは剣よりも強し」の諺にもある通り、言い放った言葉をなかったことにはできません。
ただ、一方で「絶対に人が傷つかない言葉があるのか?」と聞かれれば答えはNOだと私は思います。
「言葉のチカラ=発した言葉」だけではない
「言葉」というと、多くの人は文字で形成された、いわゆる文章のことを思い浮かべるでしょう。
その言葉に、極端な話ですが「バカ」だの「死ね」だのが含まれていれば、多くの人を傷つけるのは当たり前です。
しかし、「言葉のチカラ」は、単に発している言葉の意味合いが悪だから発揮されるものとは限りません。
理由1:文脈や意味は人によって違う
大前提として、我々は育ってきた環境や歩んできた人生が違います。
国や地域が違う…という話ではなく、そもそものバックボーンが1人として同じ人はいないという意味です。
そのため、同じ言葉でもまったく異なる意味になってしまうこともあります。
分かりやすいのが「頑張って」というひとこと。
通常、「頑張って」は相手を激励する意味合いで使われます。
しかし、これがもうどうしようもないと思っている人や、精神的に頑張れない人に向けられたらどうでしょうか?
これ以上何を頑張るの?私ってやっぱり頑張ってないって見えてるの…?
あくまで一例ですが、相手をネガティブにしてしまうわけです。
ほかにもこのような言葉は多くあります。
しかし、どれだけ配慮しても解決しない問題でもあります。
同じ言葉でも受け取り手の抱える過去や価値観、心理的状態によって解釈はさまざまになるのです。
理由2:意図と受け取りにズレが生じる
先ほどの「頑張って」の例は、単語レベルでのお話。
これがひとつの文章になってくると、話はよりややこしくなります。
特に会話においては、受け取り手と発話者の間にズレが生じてしまいがちです。
問題を出しましょう。
| 問題 |
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ある日、父と息子が車に乗っていて、交通事故に遭いました。父はその場で亡くなり、息子は病院へ緊急搬送されます。 |
みなさんは分かりましたか?
よくある「固定概念のひっかけ問題」で、正解は「外科医の正体は少年の母親だったから」です。
会話というものは、ひっかけ問題に近しいものがあります。
よく聞いていないとどこかでズレが生じてしまうのも事実です。
このズレが大きくなっていくと、言葉が受け取り手を傷つけてしまいかねません。
理由3:沈黙・無言も言葉のうち
言葉のチカラは、何も発話中にだけ発揮されるものではありません。
会話の間にある無言や沈黙、小さなリアクションまですべて含めて言葉のチカラが作用する領域だと思っています。
そのため、言葉そのものは無害であっても、沈黙や無言をネガティブな印象で捉えてしまえば人は傷ついてしまうのです。
日本には「行間を読む」という言葉があります。
読書でよく言われる言葉ですが、会話においても「行間」は存在しています。
この行間で「冷たい」「拒絶された」と感じるシーンがあれば、相手はメンタルダメージを受けてしまうでしょう。
逆のパターンもあります。
結婚式や葬儀の際に、挨拶で感極まって話せなくなるシーンがそれです。
この姿がプラスに移り、感動的なシーンを演出するのは想像に難くないと思います。
要するに、言葉を発しなくても相手の発言そのものには何らかのインパクトがあるということ。
これがネガティブに作用すれば、相手を傷つけるというオチになってしまうのです。
可能な限り丁寧に伝える努力を
物書き屋として早6年。
上記のようなシーンを、半ば職業病のように見てきました。
しかし、あれもダメこれもダメと言われれば、「じゃあどうすりゃいいんだよ!?」となるのは事実です。
私なりの答えですが、「可能な限り丁寧に伝える努力をするしかない」です。
そもそもの話ですが、私は「コミュニケーションを面倒くさがるから失言が生まれる」と思っています。
対外的なコミュニケーションもそうですが、自分自身とのコミュニケーションもまともに取っていなければ、そりゃ言葉選びが乱雑になっても仕方ありません。
コスパ・タイパの時代などと言われていますが、コミュニケーションに関しては面倒くさがったもの負けでしょう。
面倒くさがることなく、しっかりとどの言葉を使うかを検討しておくことが重要なのです。
まとめ
大前提に立ち返りますが、人を傷つけない言葉はこの世に存在しません。
言語が変わっても同じことが言えます。
理屈っぽく語りましたが、結局私たちができることは、「完全に無害な言葉はなくても、誰かの痛みを想像し、できる限り丁寧に伝える努力をすること」ではないでしょうか。
テクニック論で解決するものではなく、ひとりひとりの心構えひとつでリスクを回避できるのだと思います。

