公開日 2025年10月08日
M&A(企業の合併・買収)や事業譲渡と聞くと、
評価の基準は「財務諸表」と「将来キャッシュフロー」だと思われがちです。
確かに数字は重要です。
しかし、実際の現場では数字に表れない“見えない資産価値”が
最終判断を左右することが少なくありません。
その「見えない資産」の中に、近年注目されているのが**社史(しゃし)**です。
財務では測れない「信頼の履歴」
M&Aの現場では、買い手がもっとも重視するのは“継続性”と“信頼性”です。
つまり、「この会社を引き継いでも、社員や顧客が離れないか」という点。
その際、社史は単なる記録ではなく、信頼の履歴書としての役割を果たします。
創業の理念、経営者の判断軸、地域や顧客との関係――。
こうした背景が体系的に整理されていることで、
買い手は「この会社の価値は数字以上に深い」と判断できます。
あるM&A仲介担当者の言葉:
「社史がある会社は、ない会社に比べて“企業としての人格”が見えやすい。
それが買収後のリスクを減らすんです。」
「語れる会社」は、価格交渉に強い
買収金額の交渉では、単なる財務数値だけでなく、
「なぜこの事業を続けてきたのか」「どんな想いで社員を守ってきたのか」といったストーリーが
企業価値にプラスの影響を与えることがあります。
ある中小製造業では、後継者不在のためM&Aを検討していました。
その際、創業当時からの歩みをまとめた小冊子(簡易社史)を提示したところ、
買い手企業の担当者が「御社の理念と人材育成方針に共感した」とコメント。
結果的に、他社よりも高い評価額で譲渡が成立しました。
数字ではなく、“物語”が信頼をつくる。
それがM&A現場で社史が生む最大の価値です。
社史は「文化のマニュアル」である
M&Aの難しさの一つに、「企業文化の統合」があります。
経営理念や判断の癖、会議の進め方、社員の関係性など――
どんな会社にも独自の文化が存在します。
それを引き継がずに経営権だけを移すと、
「現場が混乱し、社員が辞める」「顧客との関係が途切れる」などの問題が起こります。
社史があると、こうした“見えない文化”を共有できます。
- なぜこの方針で仕事を進めてきたのか
- 社員が大切にしてきた習慣や言葉
- 地域や取引先と築いてきた関係性
これらを文書化しておくことで、**引き継ぎの摩擦を減らす“文化マニュアル”**になるのです。
「買い手の安心」を生むのは、理念の一貫性
M&Aにおいて、買い手企業が最も恐れるのは“理念の不一致”です。
数字や商品は買えても、企業文化や経営哲学は簡単には買えません。
その点、社史が理念の変遷を明確に示している会社は強い。
例:
1980年代:「品質第一」
2000年代:「信頼第一」
現在:「お客様の未来を支える品質」
このように、理念が時代に合わせてアップデートされていても、
根幹の思想が一貫していることが伝われば、
「この会社はどの経営者になってもぶれない」と評価されます。
実際のケース:譲渡後の離職率を下げた「社史共有」
あるBtoBサービス企業では、M&A成立後に社員の離職が問題になっていました。
買い手企業が早期に経営方針を変えたことで、
「自分たちの会社がなくなったように感じる」と社員が不安を抱いたのです。
そこで、譲渡前にまとめていた社史を改めて全社員に配布。
創業者の想い・社名の由来・顧客とのエピソードを社内で共有したところ、
社員が「自分たちのルーツはここにある」と再確認。
1年後には離職率が大幅に改善しました。
社史が、企業アイデンティティの再確認ツールとして機能したのです。
専門家も「非財務資産」として社史に注目
近年、経営学の分野では「非財務情報の開示(Non-Financial Disclosure)」が注目されています。
財務データだけでなく、
-
組織文化
-
ブランド価値
-
ステークホルダーとの関係性
-
経営哲学
といった“見えない資産”が企業価値に直結するという考え方です。
社史は、これら非財務資産をわかりやすく可視化する資料です。
M&Aのデューデリジェンス(企業調査)の際、
社史を提示できる会社は「透明性が高い」と判断されることもあります。
社史は“数字を超える経営資産”
社史とは、過去をまとめる記録ではなく、
企業の人格を伝えるドキュメントです。
M&Aや事業譲渡の場では、
「この会社を残したい」と思わせる力が数字以上に重要です。
財務諸表は“数値の資産”を示し、
社史は“信頼の資産”を示す。
どちらが欠けても、企業の価値は正確に伝わりません。
社史をつくることは、未来の買い手・社員・顧客に向けて
「この会社には、語るべき物語がある」と示す行為です。
だからこそ、M&Aや事業承継を視野に入れる経営者こそ、
いま社史づくりに取りかかるべきなのです。

